聖歌49 いざ立ち呼ばわれ
49 いざ立ち呼ばわれ 作詞: N.Tsujimura 作曲: Jai Hoo Pak 1、目を上げて仰ぎみよ 罪の巷(ちまた)より、傷つきし者の声 主の名を呼びしを 闇にあえぐ人々 道に迷いし人 ※(くりかえし) 主にあるわれらが友、 いざ立ち 呼ばわれ 2、目を上げて仰ぎみよ 暗き闇の夜に 主を待ちし者の声 しじまを渡れり 主は常に招きしが 応うる者何処(いずこ)ぞ ※ 3、目を上げて仰ぎみよ 父母にますわが主を、真の掟を説き 愛をば示しを 神に始まる生命、継ぐ者は何処にか ※ |
聖歌 第一部 49番「いざ立ち、呼ばわれ」
1952年、朝鮮戦争の真っただ中にあった韓国で作られ、長く歌い継がれてきたキリスト教の讃美歌です。
日本語の歌詞は1976年の聖歌編纂(へんさん)のときに、辻村なをみさんによって作詞されました。
原題は「目を上げて天を見よ」といいます。
「目を上げよ」。これは自らの思いのみにとらわれている者にとって、ハッとする呼び掛けです。
罪にとらわれてしまうと、人は神から目をそらします。自分の表情と思いとを、神に隠してかたくなに持ち続けます。そういうとき「目を上げる」のは、本当に勇気がいるものです。
天の父が一人の人間の魂を砕いて新しくしようとされる場合、しばしば苦しい環境や納得できない事情、厳しい人などを遣わされることがあります。
ところが、本人にはそれらのものは見えても、その奥に潜む神のみ手を見ることができません。
「目を上げなさい。あなたの心を上げて、環境と人との向こうにある、私の導きの手をしっかりと見つめなければなりません」と、主は言われるでしょう。
またその人は、友の心の呻(うめ)き、傷つく者の救いを求める心の叫びを決して聞くことはないでしょう。
父母なる神を確かに仰ぎ見るとき、隣人の悲しみが初めて伝わってきます。
パウロは「だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか」(コリント人への第二の手紙 第11章29節)と言いました。
主にある人々は皆そうなるのです。こうして伝道は、やむにやまれぬ心情の発露となります。
この歌は、そういう信仰の励ましのために作られました。
(参照:『聖歌のめぐみ』)