聖歌 11
11 成和青年歌 作詞: Hyong Chin Hwang 作曲: Anonymous 1、御父の召し受く成和の若人 輝くアジアにのろしを上げ 長き罪の夜々を打ち払い 地にぞあまねく朝を呼べ ※(くりかえし) 上げよ成和ののろしを高く 行こう海越え地の果てまで 2、罪のすべては焼き払い 恵みに溢れし新天地に 真の決意、みなぎる我等に 勝利の歌声聞こえ来る ※ 3、熱き血潮は希望に溢れ 靴音と高く 戦列は行く 五色の光 行く手に輝き 揃う歩調は天地に響く ※ |
聖歌 第一部 11番「成和青年歌」
1955年6月に、二十歳過ぎの青年、黄衡鎭(ファン・ヒョンヂン)氏によって作詞されました。
1955年初夏の頃は、その前年につくられた学生会が発展して、成和青年会を発足させ、教勢的にも大きく飛躍していました。しかし同時に試練と受難の始まった時期でもあったのです。
当時、統一教会(現・家庭連合)は梨花(イファ)女子大生14人の退学を契機としてうわさが大きく広がり始め、そのうわさのほとんどは中傷的な話題として脚色され、ちまたに伝わっていきました。
最後は、全ての既成教会とミッションスクール、そして警察当局まで警戒体制をとるようになりました。
4月に引っ越した奨忠洞(チャンチュンドン)の教会は、それまでに比べて立派な建物で、その教会の2階の講義室では、毎日のように訪れる受講者に、当時の劉孝元(ユ・ヒョウウォン)協会長が講義をしていました。
けれども一方では反対する人々が訪れたり、警察当局が訪ねてきたりして、講義を聞いている人に名前などを聞くこともあり、行く手にだんだんと暗雲が立ち込めていった時期でした。
また財政面においても困窮し、教会の生計を立てていくのが難しくなっていったのです。
しかしその中で、青年たちの志気は高く、「新しい歴史を建設する!」という誇り高い思いに燃えて、さまざまな障害を越えていきました。
そのような時、二十歳くらいの青年、黄衡鎭氏が入教してきました。彼は、李月星(イ・ウォルソン)長老の甥であり、長老に導かれて入教したそうです。
そしてわずか数カ月の間に、この「成和青年歌」の作詞をしたのです。
詞が出来上がるや、ただちに曲が付けられて歌いだされました。
当時の青年食口たちの意気が最もよく表されている歌だといわれます。(参照:『聖歌のめぐみ』)